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泣くか笑うか考えるかするブログ

祈って、食べて、踊って、書いて。愛しあえたらそれでいい。

記憶の核廃棄物

4歳の甥っ子が転んだり、ぶつけたり、思うようにならなかったり、ありとあらゆる理由でギャン泣きしたり、怒ったりする様子を見て、わたし自身はものすごく怖くなったり、イライラしたり、自分を責めたり。

怖かったのは、「あんた、そんなに泣いたり怒ったりしたら殺されるよ」というシュールな思い込みから。

イライラしたのは、それだけ自分自身が泣くことや怒ることを我慢していたから。「あんた、その程度のことを泣くの?」

「私は痛い、怒っている、悲しい、気持ち悪い」。

ネガティヴな感情を表現する生まれながらの権利が、そうか、自分にもあったけれども、私は知らなかったんだ。

泣かない赤ちゃん、泣かない子ども、手がかからないと褒められる束の間の喜びが去ると、心の中は子どもらしからぬ人間不信と怒りでいっぱいだった。それを表現すると大人は全力で反撃に出る。勝てるわけない。で、結局、自分の中に溜める、溜める、溜める。捨て所がない、自然に分解されない。原発みたいだな。

原発廃炉には、造るのにかかった数倍も数十倍もの年月と労力がかかるという。私の感情の作られ方とその表現が健全なものに変わるまでも同じだろう。

ここで見ないふり感じないふりをして、やり過ごすことができる人もいようが、内向的な私には無理だ。今日一日、1ミリでも気づきを深めるために、記憶を今ここに照らし合わせて検証し続ける、何年でも。いつか、この一つ一つの気づきをなにか素敵な形で表現できる日が来るかも知れない。そんな淡い希望を胸に抱きながら。

反省も兼ねて

神奈川選挙区から当選した三原じゅん子氏の皇国史観発言を、私には笑ったり批判することができない。自分も似たような価値観に染まっていた時期があるから。

あれは、感染る。

心の隙間にスルスルと入ってくる。
自分が覚醒したような優越感を与えてくれる。
行動を支配される。
精神科でもらったクセになる薬みたいだった。

三原さんも無自覚に寂しいのかな、などと余計な想像をしている。

私は幸運にも、頭の中をリセットできた。
記紀教育勅語を信じても庶民にはなんのメリットもなく、むしろ不利な立場になってしまうことを、サクッとアドバイスしてくれる旧家出身の人がいた。旧家の人には皇国史観は得になるらしい。ランクは違えど支配者側なので。現代にあっても権力と血統はセット。なるほど、説得力があった。

リセットできたとはいえ、付け焼き刃の知識で古事記教育勅語について、憑かれたように人に語らずにはおれなかった自分を思い出すと、いまでもゾッとする。

あれは感染る。

 

トラウマ

子どものころ、学生時代、モノを言えば親や友達から「お前は左翼だ!」「わかったような口を利くな」などの言葉で一刀両断され、何度もひどく傷ついていたことを思い出した。

本人には右も左も政治も思想も宗教も男も女もなかった。ただ繊細に違和感や疑問を感じて、それを表現していただけ。

考えの違いを持ち寄って、人と対等に語り合うことは、どうやらわたしには許されないらしい。子どもで、女で、大学ダブりで、プータローで、メンタルが病気で、肩書がなく、専門家でもなく、無知で「非生産的な」わたしにそうする資格や価値はないんだ…。

いまも、そのトラウマのフィルターを通して世界を、周りの人を見ていたことに気がついた。考えを表現することにおいては、猛烈に人を恐れていた。

急ぎ、自分を、当時の出来事を、関わった人を、そのシチュエーションを与えた神を、ゆるした。個人個人が思いを自由に表現する権利が、社会的にキナ臭くなり始めてやっと目が覚めた。

怖くても、speak out 。自由に語れ、書け、人と交われ。いまならまだ間に合う。そう自分に言い聞かせている。